東京にある3つの幼稚園とコルベ神父をご紹介します。

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北区は赤羽に、 足立区は亀有。 東村山市にもあります。

コルベ神父

聖コルベ学園はコルベ神父によって基礎が作られ、コルベ神父の理念を引き継いでいます。

赤い冠は殉教の印でした

コルベ神父は1894年にポーランドの織物職人の息子として生まれました。子供の頃は腕白でわがままだったそうですが、10歳の時に教会で聖母の祭壇に祈り、聖母のご出現を受けられました。聖母は赤い冠と白い冠を持ち「どちらの冠がほしいか」たずねられました。「両方ともください」と答え、イエスと同じように少年が望んだことを聖母は喜ばれました。赤い冠は殉教、白い冠は生涯純潔である印でした。この時から少年の生活は一変し信仰に励み、16歳でマキシミリアノという修道名をもらい、1918年にはコンベルツアル聖フランシスコ修道会の司祭に叙階され、コルベ神父になりました。

長崎に「無原罪の聖母の園」を作りました

1930年に来日したコルベ神父は、長崎の町はずれの山の斜面に修道院を開き、「無原罪の聖母の園」と名づけ、清貧生活を営みながら、宣教と学園教育に専念しました。また1922年にポーランドでコルベ神父が執筆し出版した「無原罪の聖母の騎士」を来日後には日本語版の出版にも尽力しました。(この刊行は現在も続いています)

アウシュビッツで身代わりになりました

6年後に帰国したコルベ神父は第2次世界大戦でナチス軍に捕らえられ、アウシュヴィッツ強制収容所に送られました。そこで、脱走した囚人の見せしめのために餓死刑を宣告された10人の中に、家族を持つ一人の父親の泣き叫ぶ姿を見たコルベ神父は進んで父親の身代わりになり、1941年の聖母被昇天祭の前日にアウシュビッツの餓死監房で47歳の生涯を閉じました。コルベ神父は生前自らを聖母マリアを守る騎士と名乗っていましたが、1982年教皇ヨハネ・パウロ2世により聖人の列に加えられ、「愛の殉教者」と呼ばれました。

聖母の騎士、姉妹校は日本に12あります

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